【大大阪】特別市制への情熱(2巻1号) 

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大大阪 第2巻第1号
1926(T15)年1月

【注目記事】
□白川朋吉「大阪市と特別市制」
□井上厚三郎「失業統計調査に就て」

【できごと】
12日 東洋レーヨン設立
30日 第一次若槻礼次郎内閣発足
□川端康成「伊豆の踊子」
□葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」



□白川朋吉「大阪市と特別市制」

大阪市会議長である白川朋吉の文。大阪市に特別市制と適用せよという熱い想いを乗せている。

1925(T14)年4月、周辺44か町村を編入した大阪市は、人口・面積において日本一の「大大阪」となったのであるが、地方自治体としての扱いとしては、人口3万程度の中小都市と同一法規によって取り扱われている。これは大なる問題である。3万の自治体、200万の自治体、それぞれ行うべき政策の質も量もはなはだ異なって当然である。特に大阪市のごとき大規模な自治体には、もっと広い権限を与えるべきある。ここに、政府の地方自治体に対する「画一主義」を批判すると共に、大阪市を「特別市」とする必要性を訴える。

府の存在が邪魔

白川が特に問題視するのは、中間団体として府県(大阪府)との関係であった。そして、この関係に関する問題は、2つに分けられる。

まず、「二重監督」の問題である。二重監督というのは、地方自治体が、中央省庁と道府県から、二重に監督されるというものである。このことについて、白川は以下のように述べる

主務大臣と府知事の二重監督の下にある市長は主務大臣の許可認可を要する事項に就いては如何なる些細なる事項と雖も府知事を経由せねばならないのみでなく、中央官庁に対する質問、疑義についてもまた府知事を経由せねばならないのである

あらゆる事務について、中央(内務省)の出先機関である府を経由しなければならないことは、業務の非効率の原因となっている。ひいては市民に迷惑がかかるし、経済界にも悪影響が予想される。特に大阪市のような大都市では、政策の規模が大きくなるため、高い効率性が常に求められるのだ。大阪市が特別市となり、道府県に近い権限を有して、中央と直接交渉できれば、このような非効率は解消されるのだという。

次に、「二重行政」の問題を指摘する。これは、例えば大阪市内で必要とされる事業が、大阪市と大阪府に両方によって行われている状態で、これは非効率的であるし、両者の間での摩擦がしばしば問題となる。白川の言う「役人の事業欲と功名心」によるものかどうかは知らないが、当時、府と市のあいだでは、同様の意図で行われた事業が多くあった。例えば、市が社会事業をやろうというときに、府が方面委員制度を創設したりなど、他にも以下のようなものがあった

市:乳児院産院⇔府:保嬰館
市内の幹線道路は国道・府道・市道問わず市の管轄なのに対し、市内の主要河川は府の管轄とし、市はその枝川を管理する程度
中等教育のうち、中学校・高等女学校は府立になの対し、実業学校は市立という覚書があるが、府は市の工業学校に対し職工学校を設立し、市は府の高等女学校に対し実践女学校を設立している。

白川は、このような、行政の不統一から来る市民の損害は非常に大きいとしているのである。大阪市は、団体としての財政規模、構成員(吏員)の質どれをとっても大阪府には劣らない。むしろ凌駕している。なのに制度上、府と市は監督関係(上下関係)にあるため、常に弱い立場に立たされている。府に比べあらゆる点で優秀な大阪市に大きな権限を与えてくれ、どんとまかせてくれ、というわけ

大大阪の薄弱は財政

また、白川は、地方税制の改革についても訴える。当時の地方自治体には課税の自主権はなく、税源は国税・府県税の付加税がほとんどであり、あとは、府税の9%に過ぎない僅かの特別税(歩一税・坪割税・電柱税)であった。市域拡大と、都市問題への費用が膨張してきたなかにあっては、これではやっていけない。

そこで、白川は、国税のうち地租を地方税として市町村税源とし、さらに府県税のいくつかも市町村税に移譲すべきであるとした。特に府県税は、市の財源とすべきものがたくさんあるのではないか、と(このあたりは、また後により詳しい論述があるので、そのとき述べたいと思います)。

白川の「中央―地方関係」

この白川は「中央―地方関係」について、対等の関係を目指しているわけではない。例えば、「最終の決定権を有する中央官庁に於て審議に多数の時日を要することは責むべきことではあるが場合によってはまた已むを得ずとなす」というように、地方自治体の事業の最終決定権が中央にあることには、必ずしも不満を示してはいないのである。白川はあくまでも、中央と地方の間にある、というか、。中央の出先機関である中間団体としての府との関係において、より独立した権限を持つことを望んでいたようだ。


□井上厚三郎「失業統計調査に就て」

1925年後半に行われた、日本初の「失業統計調査」に対する反省を述べた文である。井上いわく「統計思想の極めて幼稚な」日本において行われたこの調査は、数々の不備と支障に見舞われたという。今後の糧とするために、それらの点について分析したいという。

まず、井上の挙げた「ダメな点」を以下に記す

調査の時期

同時期に行われた国勢調査と共同でj実施された(事実上、国勢調査の付帯調査のような感じになった)ことで、調査期間が長期にわたることになった。国勢調査と違って、失業率調査は動的なのだ。特に大阪市の場合、4月に市域を拡張したこともあって、調査は困難を極めた

調査の客体

調査の対象は「労働者」となっている。ではここでいう労働者とはどういう者を指すかというと「雇用関係の下に賃銀を得て主として肉体的労役に従事する者」とある。つまり、独立して肉体的労働に従事している者は対象外になるのである。例えば「洋傘修繕屋、人力車夫、下駄直し、荷車引、裁縫職」などの人々が調査対象外になっているのである。彼らは、独立労働者とも言えるが、日雇労働者とも言えるのだ。生活レベルにおいては低賃金労働者の部類に入るし、非常に不安定な立場である。彼らを抜きにして、失業率の実態は本当に見えるのか?

あと、商家の丁稚奉公人はどうなのか?彼らはふつう、賃銀はもらっていない。ということは、調査対象の「労働者」には入らない。でも、どうだろうか。食事はまかないだし、小遣いももらっている。労働に対する対価という点では、それらは賃金となんら相違ないのではないか?というのである

さらに、ホワイトカラーも問題となった。彼らのうち、月収200円以上は調査対象外となっていたが、この規定を悪用して、月収200円未満の者が、「以上」とウソの申告をするケースが目立ったという。井上は、月収の程度は調査対象の基準にする必要はないんじゃないか、と言う。統計的に失業の危険率を示すのが目的なら、確かに月収制限はいらないように思う。あとで母集団を分けて分析すればいいのだから。要するに、ホワイトカラー全員を調べて、あとから月収200円未満の集団の結果を出すとか。

調査結果について

で、調査結果について。まず井上は、調査前は「失業者の数は全市に満ちている」とか「街頭に聞こゆるものは失業者の叫びのみ」といった漫然なものばっかりで具体的な数字を挙げたものはひとつもなかったという。そして今回出た数字は18,913人であった。

この数字に対し、「ちょっと拍子抜けじゃないか」と井上は言う。いや、感覚からしてもっといそうだ。こんな少ないはずはない。やはり、調査方法や、「失業」「労働者」といった概念の規定が、実社会と合っていないんじゃないか、と。

とにもかくにも、今次の調査は不備が噴出するものであったから、今後はその方法をより合理的にしていくべきであると、井上は言う。確かにこの数字、実態とはかなり合っていないだろう。人口200万人のうち1万8千人ってことはないだろう。この点については、今後、「大阪市社会部調査書」なんかで調べていきたいと思うのである

[ 2007/06/09 01:01 ] 大大阪 1926(T15.S1)年 | TB(1) | CM(0)

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【国勢調査】について

国勢調査国勢調査(こくせいちょうさ)は、人口などの動向について行なわれる調査のことである。こくぜいちょうさと読まれることがあるが、誤りである。以下では特に但し書きがない限り、日本での事例について取り扱う。.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotation
[2007/06/10 11:31] URL 行政ガイド

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